刈田嶺神社(里宮)
Source【心の癒し~神社・仏閣巡り~】
————————————-
刈田嶺神社
由緒には2つの説があります。
【宮城県神社庁の説(wikiより抜粋)】
当地の伝説では、当初は第2代天皇の綏靖天皇を祀っていたとされ、神社として創建されたと考えられる。その後、白鳳8年(679年)に、役小角が大和国(現奈良県)の吉野山から蔵王権現を不忘山に奉還してそこを修験道の修行の場とし、「蔵王山」と呼んだ。すると当社はいつしか「蔵王大権現」と称するようになった。明治維新で神仏分離が行われると明治5年(1872年)4月に「水分神社」と改称するが、明治8年(1875年)には「刈田嶺神社」に改称して郷社となった。
【蔵王町の説(wikiより抜粋)】
平安時代に修験道開祖の役小角の叔父にあたる願行が、吉野山の金峯山寺蔵王堂から当地の奥羽山脈の山頂に蔵王大権現を分祀し、青麻山東麓に僧坊を構えて修験道の修行を行った。そのため、修行の場となった当地の奥羽山脈は「蔵王山」と呼ばれるようになった。明治維新で神仏分離が行われると、吉野では「蔵王権現」を神号とし、従前の僧侶が神官となった。これに従って当地でも明治2年(1869年)7月に「蔵王大権現」を「蔵王大神」へと改号。さらに同年9月、「蔵王大神」とは「天水分神および国水分神」の2柱であるとの解釈から、社号を「水分神社」(みくまりじんじゃ)に改称した。なお、この時期に修験道の「蔵王大権現」を管理していた真言宗の嶽之坊は、神道の神社となった当社と合一したと見られる。明治8年(1875年)に「水分神社」は「刈田嶺神社」へ改称した。
似てるようでちょっと違いますね。
刈田岳山頂の奥宮は、もう少し暖かくなったら行ってみます。
最後までご覧頂き有難うございますm(_ _)m
————————————-
もとのWEBサイトでこの記事を読む→刈田嶺神社(里宮)