山形の神社

大衡八幡神社

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大衡八幡神社
Source【心の癒し~神社・仏閣巡り~】
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おおひらはちまんじんじゃ

大衡八幡神社

 

おはようございます\(^o^)/

 

本日もご訪問ありがとうございますm(_ _)m

 

久しぶりの参拝です。

【由緒(Wikipediaより)】

封内風土記によれば、大衡八幡神社(別名:塩浪八幡神社)は、天文13年(1544年)宮城県黒川郡下草を治めていた黒川景氏の次子である治部大輔宗氏(じぶのたいゆうむねうじ)が塩浪館(越路館)を築城し、本丸内の鎮守として八幡大神を勧請し、天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により、塩浪館が落城したため現在の社地に遷座されたと伝えられている。

 

昭和57年(1982年)7月発行の大衡村村誌には、「大衡村出身の布施千造氏著書に、1772年の別当三明院秀坊の時より1780年の間、無住となり、御神体は地主である横橋忠三郎が四十年余り保管し、文政元年(1818年)良覚院弟徒の三明院正善が再興し、御神体を復旧した。」と記載されている。その訳を史実に記載されていないが、社家の記録によれば、当時大地震・伝染病・飢饉等が発生したために餓死する人々を救い鎮めるため、京都・熊野・伊勢詣りに出立したが、旅の途中で伝染病を患い帰幽したとの記録がある。また、戸田長五郎定隆が大衡村楳田地区にあったお寺を現在の曹洞宗昌源寺の地に再興するよう三明院昌元に命じられ、新寺の名称を三明院昌源(昌元)導師の名前に因み、昌源寺という名づけられたと伝わる。また、八幡神社の跡地に昌源寺を建立したとも伝わる。

 

明治2年12月明治政府外事局御役所に、第12代本山流修験三明院元歓の真名子三明院元詠(櫻木元諄)が神職に願上届けをし、櫻木元諄と名を改め初代の神主となる。

明治6年(1873年)3月、大衡八幡神社は、大瓜の大瓜八幡神社と同じく村社に列せられ、明治11年に大衡村と大瓜村の連合村が発足し、さらに明治17年に四村(駒場村、大森村、大瓜村、奥田村)の連合村が成立した時より、連合村の村社に列せられ現在に至る。明治41年12月21日に、旧大衡村の九社が合祀され、現在に至っている。

 

 

 

【境内入口・鳥居】

【案内板】

【社頭の石碑群】
境内でパワーが集まってる所のようです。

【鳥居扁額】

朱色なので稲荷社だと思われます。

【天之御中主神の使者である亀神様】

【いろいろな神社の方角が判る方位盤】

新しくなってました。

【御神水の湧水所】

昔は眼病平癒の御神水として利用されてたようですね。

奥におられるのは不動明王様。

【狛犬さん】

【参道の階段】

【拝殿】

【拝殿扁額】

 

【境内社(別宮)ー金谷神明社】

御祭神は天照皇大御神。

【扁額】

【石碑群】

社殿裏に小さな祠。

【御神木】

合祀された御祭神。

【御朱印】令和元年12月7日(土)拝受

『至誠通神』とありますね。


偽りなき誠実は、必ず神に通じ、良い結果をもたらす。

ありがたい御言葉です。

【鎮座地】

宮城県黒川郡大衡村大衡字八幡48

 

【主祭神】

応神天皇(誉田別尊)

天照大御神

天之御中主神(妙見菩薩)

白山比咩大神(白山権現)

 

【相殿神】

伊邪那岐・伊邪那美・猿田彦神

武甕槌神・素戔嗚尊・豊受神

宇迦之御魂神 

 

【創建年】天正5年(1577年)

 

宮司さんは修験道の血筋のようで霊視鑑定を行ってるようです。

最後までご覧頂き有難うございますm(_ _)m

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もとのWEBサイトでこの記事を読む→大衡八幡神社

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