彫刻が素晴らしい★山神社
Source【心の癒し~神社・仏閣巡り~】
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やまのかみしゃ
山神社
その他に、山崎地区の無格社神明社(祭神:天照大御神)、西原地区鎮座の村社八幡神社(祭神:誉田別命)、下小牛田地区鎮座の無格社日枝神社・町屋敷地区鎮座の郷社日枝神社(祭神:大山咋命)が合祀されている。(Wikipediaより)
【由緒(Wikipediaより抜粋)】
崇徳天皇の御代である永治元年(1141年)、摂津国の住人で、現宮司家の祖先である小山田清寧が家の守り神として勧請したのが始まりだと伝えられている。その後、清寧の後裔である浄円が元亀2年(1571年)に神璽(神体)を奉じて、陸奥国遠田郡小牛田旧屋敷にやってきて移り住み、天正3年(1575年)には祠を建てて神体を鎮め祀ったという。
神体については、「お経を霊場に納めるため諸国を行脚していた僧が観音様を背負ってやってきた。僧は病にかかり、南小牛田町屋敷の伊藤家で世話になった。回復したお礼に、僧は観音様を安産の神だと言って置いていった。それが山神社の木花佐久夜比賣命である」という伝説が記録されている。この神体とされる観音像は、山神社が寛文2年(1662年に町屋敷地区の大場家に遷座した際に社殿に納められた。
元文元年(1736年)、村内で大火があり類焼するが、元文5年(1740年)には社殿が再建された。寛政4年(1792年)には社殿の改築を起工し、文化6年(1809年)間口九間・奥行四間の社殿が造営された。
山神社の神は火伏の神・酒造の神とされているが、子授け・安産・子育ての神として特に信仰されており、民衆のみならず武家も篤く信仰した。
明治時代には、山神社は「小牛田の総氏神」とされた。明治41年(1908年)8月、山神社の近くの民家から火事が発生し、全焼91戸・185棟が焼失するという被害を出した。火元であった民家近くに鎮座していた山神社の社殿も、西風に煽られて広がった火災に巻き込まれ全焼したが、神体・御神鏡・御太鼓は社殿から運びだされたため無事だった。
神託を受けて、仮宮の場所から南へ300メートルの場所で、丘陵地の端であり、湧き水が流れる清浄な土地である「斉の台地区」の茶畑として利用されていた場所に再遷座することが決まり、社殿が造営され、大正6年(1917年)12月に遷座祭が催行された。
山神社には、近隣の地域に鎮座していた神社が合祀されている。明治41年12月28日には下小牛田地区の無格社日枝神社、明治42年1月19日には山神社と隣接して鎮座していた郷社日枝神社、同年3月7日には本小牛田西原の村社八幡神社と無格社神明社を合祀している。
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