神宮(内宮)皇大神宮【神宮号の神社を巡る旅】
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神宮(内宮)皇大神宮
【御祭神】天照坐皇大御神
【御神体】八咫鏡
【創建年】垂仁天皇26年
【歴史(wikiより)】
『日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。
垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりという。鎮座地に関して、伊勢では河川の氾濫が頻発して低湿地が広がっているため、内宮は水害に遭いにくい河岸段丘上に建てられたという説が挙げられている。
明治時代までは、僧侶の姿で正宮に接近することは許されず、川の向こうに設けられた僧尼拝所から拝むこととされ、西行も僧尼拝所で神宮を拝み、感動の涙を流したという。荒木田氏が祠官を世襲していたが、明治以降は世襲制が廃止された。
1945年(昭和20年)7月29日、宇治山田空襲により宇治山田市は甚大な被害を蒙った。内宮にも40機ほどの編隊でアメリカ軍機が神域に迫り、次第に照準が正確になってきたが、内宮の神域に差し掛かったところで焼夷弾は五十鈴川対岸の山に吸い込まれるように流れていった。この「奇跡」により内宮に被害はなく、神職は「ご神威」に涙したという。第二次世界大戦後は元皇族の女性が代々の祭主をつとめている。
由緒
宇治橋
内宮は右側通行
五十鈴川
神苑
御手洗場
瀧祭神
五十鈴川の御手洗場の近くにあり、御垣と御門のみで社殿はなく、石畳に祀られています。五十鈴川の守り神として古くから大切に祀られ、内宮の所管社ながら、祭典は別宮に準じています。
参道
風日祈宮
正宮 皇大神宮
御祭神は天照坐皇大御神
伊勢信仰の中心となる社。全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札です。
御稲御倉
外幣殿
踏まずの石
正宮から荒祭宮へ進む道の途中の階段に「踏まずの石」または「踏まぬ石」と呼ばれてる石があります。
荒祭宮
四至神
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