鹿島御子神社
Source【心の癒し~神社・仏閣巡り~】
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かしまみこじんじゃ
鹿島御子神社
おはようございます\(^o^)/
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今年最後の投稿は、行方郡延喜式式内社八座のうちの一座であります、鹿島御子神社です。
【由緒(Wikipediaより)】
神代に天足別命(あまたりわけのみこと・あまたらしわけのみこと)は、父神である武甕槌神・経津主神と経津主神の御子神である阿佐比古命とともに奥州の邪気(邪鬼)を平定するために降臨したという伝承が東北地方の神社には残されている。
由緒書によると、天足別命は奥州平定後は当地へ残り、社殿を設けて鎮座したことが当社の創建だという。
景行天皇の時代には、日本武尊が東征での武運長久を祈願したところ霊験があり、反抗する賊徒たちを無事平定することができた。そのことから、鹿島御子神社は軍神として武人から特に崇敬を集めるようになった。
往古は現在の鎮座地から南へ200mほどの場所に社殿があったが、平城天皇の時代である大同元年(806年)には現在地へ遷座した。現在も往古の鎮座地には「鹿島御子神社旧蹟」と描かれた石標が立てられている。神官や社僧も多く、神領17石を有し、鹿島神宮からも毎年奉幣を受ける地位にあった。
醍醐天皇の時代である延喜5年(905年)、鹿島御子神社は軍神・鎮火の神・医術の神として霊験があり、多くの崇敬者から信仰を集める由緒ある神社であったことから、陸奥国延喜式式内社百座のうちの一座に列せられた。醍醐天皇も自ら武運長久を祈願し、御神体を奉納したという。歴史書「奥相志」によれば、御神体は「衣冠の騎馬像」であるという。
寛永13年(1635年)には、当社を尊崇していた相馬義胤により社殿の補修・祭典費の供進・神地の献納が行われた。それ以降も、明治維新の頃まで歴代の相馬藩主により篤く崇敬され続けた。明治9年(1876年)11年に郷社に指定され、大正15年(1926年)には幣帛供進使参向指定社となった。
●特殊神事の『鎮火祭』●
鹿島御子神社では、特殊神事として『鎮火祭』という神事が催行されている。この神事には祭神である天足別命に関する伝説がある。
天足別命が当地にやってきた時、稚児沼というところへ仮宮を設けた。当時、現在の鹿島地方では「大六天魔王」と名乗る賊徒が暴れまわっていた。 ある朝未明、大六天魔王ら賊徒が天足別命の仮宮を襲い放火した。天足別命は直ちに「火伏せの神事」を行なって、四方八方へと広がる猛火を速やかに鎮めた。
そのとき、鹿島大神の神使である鹿が多数現れ、川から濡れた笹を口に咥えて持ってきて、天足別命の仮宮を水で潤して火が再び燃えあがることに備えたのだという。その後、天足別命の御神徳によって、大六天魔王ら賊徒は平定され、二度と横行することはなかったと伝わる。
鎮火祭は、上記の伝説に基づく神事である。
毎年1月14日 「火伏祭」
午後6時、法被姿の若者たちが町の大通りの民家一軒一軒に「火伏せー、火伏せー」と唱えながら神霊の宿る御神水をかけて走り抜ける。
翌日1月15日 早朝「天燈籠祭」
御神歌や神楽の奉納が行われ、天燈籠を掲げて旧社地で神事が催行される。旧社地からの帰り道、神職は沿道の氏子たちから浄水をかけられる。その後、神官は冬の寒さで衣冠が氷結したまま社殿へと戻り、天下の罪穢を祓い清め、一年の火伏せの祈願と氏子崇敬者の諸祈願を行うという
【鎮座地】
福島県南相馬市鹿島区鹿島字町199
【御祭神】
天足別命
志那都比古命
志那都比売命
【社格等】
延喜式内社、旧郷社
【創建】
伝・神代。現鎮座地には大同元年(806年)
帰りに竹駒神社さんへ。今年1年、無事に過ごせた事に感謝を申し上げました。
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